破壊しにいくというエウレカセブンについて

ANEMONEは「エウレカセブン」と呼ばれるものをアネモネが破壊しにいく話との予告である。はてなダイアリーも来春に終了すると予告されたので、ダイアリーで付き合いが長かったと思うエウレカセブンの現状認識を書くには、二つの節目でちょうどいい時期かもしれないと思ったので、戯言を書けるダイアリー的に少し書いてみる。

下で「リミックス版」って書いていて思ったけれど、ハイエボ1って新曲と代表曲のアレンジ版が入ったシングルCDみたいだな。きっぱり分かれている感じが。

シミュレーショニズム

交響詩篇エウレカセブンは「アニメでセカンド・サマー・オブ・ラブを再現したもの」と何度かインタビューで見た。ただし言及されるときはおおよそ「俺たちにとってのセカンド・サマー・オブ・ラブなんですよ」「そうそう」ぐらいの感じで、作り手が1994年前後から目撃・俯瞰した1988年セカンド・サマー・オブ・ラブの感覚、一種のお祭り感、あるいはDJが曲をかけるような技法でアニメを作ることを試みている意味だろうかと長いあいだ受け取っていた。

そもそもセカンド・サマー・オブ・ラブがまずピンとこない。音楽イベントとその周辺とはどういうことか。ムーブメントは肌で感じていれば言葉多くせずとも理解できるかもしれないが、時代も縁も知識もないのでうまく説明できず、何を再現しているかについては「私的体験」や「制作上のお題」と解して片づけてきたのであった。

そこへハイエボ1で「バロウズ」という地名が出る。元ネタはたぶんウィリアム・S・バロウズ*1で、1960年代前後に文章を切り刻んでつなぎ直すカットアップ技法を用いた草分けであり、それ以降の音楽界にも影響を与えて、1967年のサマー・オフ・ラブと重なる作家。こういった説明を読み書きしていて「ああエウレカセブンっぽいなー」となって、作品全体のつながりのようなものが見えた気がするのである。

美術でいえば伝統的な絵画・彫刻から機械・工業賛美の様式に転じ、そんな様式すらぶっ壊してやろうぜと前衛表現に転じて、いよいよやることがなくなってしまった時代に「こんなの見つけたけどこれ面白いよな」と個人の好みで昔のものを引っ張り出してモノを作っていくのが流行る時代が、70年代80年代以降である。ざっくり。

音楽でもサンプリングや同じ曲のリミックスを行うハウスミュージックがその流れに相当して、セカンド・サマー・オブ・ラブの主役ジャンルだったとされている。海外だと流用による表現はアプロプリエーションと呼ばれ、日本だともう少し無自覚なニュアンスに聞こえる「シミュレーショニズム」という便利な言葉で括られている。これら一連の現象がエウレカセブンの底流だったのではないだろうか。

「語感がロボットっぽくてかっこいい」という連想をきっかけにシリーズ全体で音楽用語やスポーツ用語から作品用語へと執拗に転用していて、交響詩篇はよく指摘されるように過去のアニメや創作物から、ポケ虹は交響詩篇を素材に混ぜて作っていて、AOは交響詩篇で見せた構図を繰り返して、ハイエボ1は交響詩篇前半のそれこそリミックス版である。それでハウスミュージックやロックをBGMにして進んでいくんだから、サマー・オブ・ラブからセカンド・サマー・オブ・ラブあたりの表現・構造をひっくるめての再現って意味なのかなと腑に落ちたのである。ムーブメントってそういうことかと。

「ロボットアニメはもうやりつくされているので開き直って好きなように作っていくしかない」とも制作動機で表明されていた。コピーのコピー論は大御所アニメ監督は誰かしら言っているので、その理屈もまた受け売りだろうとも言われたりするのだが、美術史・音楽史・表現史のやりつくされた果てに生まれたシミュレーショニズムを思うと、エウレカセブンはアニメにおいて同様の状況に置かれていることを自覚してシミュレーショニズムに身を浸し、それを体現している作品群であると今のところは思っている。

メタ構造と破壊されるというエウレカセブンについて

他に内容外で言われるのが、再編集が絡むときに顕著なメタ構造だろうか。ポケ虹はテレビ版世界に憧れてその再現(素材を揃えて総集編) を目指す勢力から二人が逃れる(素材を使って新作の完成) 話と見れば、作品のスタイルとなんとなく一致していて構造的に面白いとも、意地悪くない?とも思える。そういえば「エウレカセブン」の名が劇中に登場するのはANEMONEが初めてではなく、神話再生計画の通称がエウレカセブンであった。

ともするとANEMONEで登場するエウレカセブンもまた別空間であると同時に、テレビ版そのものも指しているのだろうか。テレビ版を「再生」しているのだからハイエボ1が4:3だったりPLAY BACKが出たりすることだって納得がいく。ハイエボ1空間はあのまま行くと例の次回予告の「2」に繋がるので、アネモネが殴り込みに行くことで新たな方向(「3」) に向かうという作品構造だと美しい。アイドル設定をどう拾うかが分からないが。

裏切られて追い詰められて

もう一つ全体に対して思っていることで、このシリーズで描かれる「成長」は積み重ねて伸びていくとか、同じ壁に挑戦して乗り越えていくとかそういうのじゃないよなあと。積み重ねたものは倒れるし、壁にぶつかったら他の道を探していってるよなあと。レントンホランドもデューイもネバーランドの子どもたちもアオもエレナもトゥルースもアドロックも基本的に期待を裏切られて、ベストと思った答えを失って道を進んでいく。

喪失から始まる物語は定番だが、選択肢は潰されていき、ノイズの中から炙り出すようにベターなものを手に入れる様は特色だと思っている。

戯言を書ける日記

来週には打ち砕かれるかもしれない推察や総括を今して何になるだろう、怪文書じゃないかって書いていて思う。でもこういうのを書けるのは「ダイアリー」ならではだったとも思う。去年の印象と変わらずに「ブログ」だとやはり参考になることか、コンテンツでなければならない気がしてくる。日記なら日記ということで誤魔化しが効く。

スマホゲーだって爽快・軽快・痛快を常套句にしている時代だし、アニメもより分かりやすく、より巧みに作られている近年である。見る分には他人の感想や関係者でもない人の解説は不要だし、むしろ無粋とさえ思える。見て分かるんだからそれでよくない?と思ったり、ネトフリなんかだと全話一気に配信されたりして毎週考えたりすることはない時代になって、自分は感想の言語化にどんどん消極的になっている。語り合うことや海外の反応を見るのが好きなんて人が大勢であるわけで、なぜ伝わるか、なぜこう感じたかの言語化が積極的に行われている今の時代に真逆だ。

推察がいらなくなりダイアリーも終わり平成も終わり、ターニングポイントのANEMONEからは何か書くならブログを選ぶしかない。いろいろ共通性を感じる公開直前なのである。

ダイアリーは放っておくと勝手に移行されると聞いたけれど、お知らせや計画みたいなのってどうなってるんでしょうかね。

*1:バロウズが人違いならどうかと考えたがEureka!したことに影響はないだろう